まちの歴史(斉明5~明治10)

斉明5(659年)

3 阿倍臣、軍船180隻を率いて蝦夷を討ち、後方羊蹄(しりへし)に政所(まつりごとどころ)を置く(日本書紀)。

寛文9(1669年)

シャクシャインの乱各地へと広がり、「いそや」で20人の死者がでる(津軽一統志)。
同書「松前より〔上〕蝦夷地迄所付」には、
しりへつ川有家十軒
いそや川有家十軒
とある。

元禄15(1702年)

  飛騨屋久兵衛、松前に渡来、尻別において唐檜(エゾマツ)の伐木事業を始める。

享保5(1720年)

  新井白石『蝦夷志』で、シリベチを「後方羊蹄」とする。

元文2(1737年)

3 飛騨屋久兵衛、この年より5か年の期限で尻別御山へ杣夫を入れ、蝦夷檜(エゾマツ・トドマツ)の伐採を始める。
伐木高 1か年 1万4~5,000石
運上金 同 1,200両
4 引き続き5か年(延享4まで)蝦夷檜の伐採を続ける。
伐木高 1か年 1万8,000石
運上金 同 2,000両

松浦武四郎「志利辺津日誌」(安政41857)には、
今より凡百弐十年許(前)、元文・寛保・延享・寛延より宝暦に距るまでは、此川すじ(尻別川すじ)青木松椴 檜多く有、開山に成居りしが故、山樵(きこり)共も数百人入込、至極富賑に有しが、留山(木の切り出しを禁止した山)に成てより、其頃開墾せし畑も荒廃し、今は此処(川口)よりメナフト(現名駒)辺まで欝葱(草木の茂るさま)たる広野と成りたり。
とある(かっこ内は註)。

宝暦のころ(1751~1763年)

このころ
◇宮島という者が、タンネメム(現清水)で稼いでいた(志利辺津日誌)。
松浦武四郎『西蝦夷日誌』には、元和のころ(1616~1623)とある。

文化3(1806年)

4・9 遠山景晋(目付)、村垣定行(勘定吟味役)、西蝦夷地検分の途次イソヤに一泊、翌日イワナイに向け出船。

文化4(1807年)

8・25 近藤重蔵(小普請方)、山田忠兵衛(御鷹野方)、田草川伝次郎(御小人目付)らシリベツ川内に船を着けて一泊する。
田草川伝次郎『西蝦夷日記』には、
シリヘツ 運上家一軒
夷家無之
シマコタン・ノット両所に夷家廿七軒
常住人家二、三軒
シマコタン・ノット両所に夷家廿七軒
常住人家二、三軒
とある。

この年
◇円空の仏像、6月と9月の2回にわたり尻別河岸に漂着、漁夫これを拾い、のちに能津登崖に祀り、尻別川下大明神と唱う。
その後天保2年(1829)海神社に奉祀する(磯谷史年譜)。
仏像の一体には、「いそやのたけ寛文六年丙午8月11日初登内浦山円空上(人)」とあり、他の一体には、「らいねんのた(け)」とある(岩内町史)。

天保3(1832年)

  磯谷場所請負人西川順兵衛、北尻別に稲荷神社を創建(明治11・11村有の神社となる)。

嘉永3(1850年)

  尻別川西詰に佐藤万吉、東土場に米五郎居住、木材の伐採、炭焼き、渡守りを業とする。

安政2(1855年)

3・27 箱館表及び江差在乙部村より神威岬まで、津軽藩の警衛地となる。
12・22 箱館奉行、梨本弥五郎(下役元締)に妻子を伴ない宗谷に赴任することを許可する。神威岬以北への婦女通行の禁が解かれる。

安政3(1856年)

4 松浦武四郎、シリベツ川の渡守りより川すじのことを聞く。渡守りの家には、万吉(65歳)とせがれの文次郎とが住んでいた。

この年
◇岡田錠次郎(調役下役)、尻別川をメナ(現名駒)のやや上流までさかのぼる。
◇磯谷の請負人桝屋(佐藤)栄五郎と岩内の請負人仙北屋(佐藤)仁左衛門の出願により、雷電道路が開削される。
◇栄五郎の父定右衛門、黒松内山道のうち黒松内から歌棄までを私費で開削、その功により一代苗字を称することを許され、一生のうち2人扶持を給せられる。
◇尻別精進川に曹洞宗願翁寺設立。

安政4(1857年)

5・6~7 松浦武四郎、案内人四人とともに尻別川をさかのぼり、シャマッケウッカ(旧大谷地のあたり)に至り引き返す。
8・9 松浦武四郎、フルホク(現喜茂別町)より、案内人4人とともに尻別川を下り、渡守りの家(現港町)で一泊する。

安政5(1858年)

  津軽の人(青森県人)中島吉松、磯谷漁場かせぎより、ナガトロ(現初田)に移り、農業に従事する。

この年
◇尻別川のサケ、海川2か統の曳き網で8,450尾を捕る(磯谷史年譜)。

安政6(1859年)

11・26 尻別、庄内藩の警衛地となる。

慶応4/明治元(1868年)

  尻別東土場に鹿内某外3戸、西土場に稲崎喜三郎外3戸が移住する。

明治2(1869)

8・15 蝦夷地を北海道と改称し、11国86郡を置く。磯谷は、後志国磯谷郡となる。
9・14 磯谷郡が、米沢藩と五島銑之丞の管轄となる。
同年11月11日 米沢藩士山田民弥、家臣6名と磯谷に駐留して、横澗、島古丹、能津登、西土場を統治する。

この年
◇尻別勤番所、古山富治宅に設けられる。
◇岩内からの漁夫、尻別で鮭36,000尾を漁獲する。
このころ
◇尻別の字名、浜詰、精進川、メトツ川上、メトツ川下となる。

明治3(1870年)

7 東本願寺現如上人(大谷光瑩)の一行、尻別で一泊翌日雷電峠をこえて岩内に向かう。

このころ
◇正津川、浜詰に、旅館、飲食店等数戸あり、お久、お信、妓女に佐渡菊などがいた。雷電峠の通行者のために餅屋があった(磯谷史年譜)。

明治4(1871年)

  2月に五島銑之丞、8月に米沢藩が罷免となり、磯谷郡、開拓使の管轄となる。

この年
◇人別、米子(現共栄)に、旧米沢藩から成田某ら5戸入植、開墾を始める。
◇歌棄、磯谷の旧場所請負人佐藤栄右衛門、開拓使生となり、磯谷郡詰になる。
◇尻別稲崎喜三郎らの懇請がいれられ、初めて村納屋と称するサケ漁権が与えられる。
このころ
◇尻別東土場、浜詰、正津川、メドツ川に合わせて19戸、西土場に8戸が居住していた。

明治5(1872年)

9・14 函館支庁の管轄となり、磯谷郡内に尻別村(現蘭越町港町)、能津登村、島古丹村、横澗村(現寿都町磯谷町)ができる。四村戸長に佐藤伊三右衛門(佐藤栄右衛門)がなる。

明治6(1873年)

3 磯谷、岩内の郡界をアブシタと定め、函館支庁斉藤某、郡界に地杭を建てる。

この年
◇開拓使本庁から国・郡・村の調査のため福士成豊の一行が派遣され、尻別川尻を起点に昆布川合流点までさかのぼり、水路里程九里余、落差160尺であることを定めた。官庁による初めての実地測量であった。

明治7(1874年)

1・1 能津登村(現寿都町磯谷町)に郵便取扱所を設ける。

このころ
◇東土場付近に鹿が多く棲息していた。

明治10(1877年)

  目名川の川尻に、津軽浜名村の浜名安蔵(俗称雑魚爺)が居住する。

このころ
◇パンケ目国内川の川尻に、石川県羽咋郡の野崎五兵衛(俗称赤頭巾)、パンケ目国内川の川尻に俗称石炭爺(国元姓名不詳)が住んでいた。